最近、珍しく後悔をした。
この歳、40代中盤まで後悔ってのはあまりしてこなかった。
青年期までの考え
失敗こそ有ったが、それでもベストを尽くして走ってきたので
その失敗さえ必然的に起こってしまったことで
自分はできることをやってきたな。と考えていた。
そこまでが、中年前の考えだ。
中年になって思い当たった
色々選択をしベストを尽くしたはずだったが、肉体的物理的衰えからか過去の努力や経験に対する認識が少し変わってきた。
得られた知識や筋力との代償としてうけた痛みを忘れはじめているのでしょう。
痛みを忘れることで起こるのが、自分を俯瞰して見れてしまうということ。
これが厳しい。
アレ?なんでこんなところで、こんな状況にハマってるんだ?
ってね。
分析できてしまう。
もっと自由に世界旅行でもどんどんして色んな人と出逢えばよかったのでは?
金銭面で小さくまとまらずに、ドンと金払って勝負して立ち回れば面白い体験がもっとできたのではないか?
なんてね。
ただし、実際はそうも行かなかったのだけれど。
物理的に金銭的にすべてが出来たわけではないし
そもそも、僕自信がそこまで優れた人間性を持ち合わせていなかったのだろう。
社交的だったのか?コンプレックスも多く有っただろう?
痛みを忘れるってのはある程度幸せなことでもある。
じゃぁ、過去改変ができるとして、もう一度あの時代に戻って日々を過ごすのか?
って質問が来たとして、Yesと応えることは既にできないだろう。
体力的に充実した時期に戻るとして、今ある状況を記憶した精神で戻るとしたらかなりキツイなと思ってしまうだろう。
もう一度?
もう一度、振り出しからゲームを進めるのか?
という質問に対して応えられるのか?ということだ。
水泳部のキツイトレーニングに耐えられるか?
北海道の途方も無い平原をただひたすらにペダリングするのか?
などなど。
残念ながら転生も過去改変も出来ない世の中だから、幸いにもそういうツラさを実際味わうことはないのだけれど、また後悔をしても時間を大きく割いてもそれほど得られることはなくモラトリアムが増大するだけだなとか。
後悔に多くの時間を割く必要はなく、何がしたかったのか、今なら何ができるのか?ということを明確化するのに役に立つだけではないかな?と。
絶望
まぁ、やりたいことすべてがもう既にタイム・アウトしていて選択肢に現れなくなってきてしまっているのであれば、その事実に絶望するしかないのだけれど、まぁ、その絶望も乗り越えて限られた選択肢の中で楽しむというミニマルな可能性を探求するのも楽しいことになるのではないかな?と絶望しつつほくそ笑む自分が思い浮かぶことがなんとも。
気づけば
気づけば一緒にアツい時代を過ごした友人はいなくなっていたりする。その事に絶望している人を見るに、まぁそれは青春が過ぎたのだよと背中に語りかけたくもなる。(ヤボなことなので直接はしないが)
多くの人が自分が見ているステージから退場して独演の無言劇になる場合さえあるが、それでも劇は続く。どんな劇にするのか?を考え、僕自信も進もうかと思う。
貴方の劇にも良いストーリーが紡げますように。
追伸:コロナ禍も有って時間が出来て感傷に浸ったりってことなのかな。増田をみてて先日思い当たった事+近しい人の狼狽に対する個人の考えをメモした次第。