引越しをする予定があり西新宿ではない西新宿になる可能性が有る。
それはおいておく。
僕は職業的にプランナーである。
アニメオタクであり写真もやる。ライフワークとして絵も描く。
良いと思うものを集め保存する癖がある。
良いものを選定し変換。自分の提案として出すことをする。
文化だアートだといっても所詮は模倣である。
絶景の写真。
その瞬間のコピーを残す写真もまた然り。
価値ある仕事、価値の有る提案…。
引越すにあたり荷物を整理している。
僕の持っているものを移動する。
ただ、今回は結婚してはじめての引越しだ。
奥さまはとにかく捨てるのが大好きで物を持たない。
物を持つことで情報を得ている僕のアガリで暮らしているはずなのだが、その僕のシノギの方法に物申すとな。
とにかく捨てろ。とな。
価値あるもの?
ってことに直面する。
制作マンとしてやってきた20年くらいの制作物もゴミとして捨てている。
ゴミだ。
僕の人生を掛けて体を壊してまで作ったものもゴミになる。
紙の業界はWebに比べて手に取れるものになる。
Webは一過性でそのうち消えてなくなる。
紙はその点、手元に残りよいよな。なんて話をしていたことが過去にあったが
伴侶を得て人として二本の足で立ち上がれるようになった今
ゴミである。
それでも暗い顔になりながら若い頃に作ったツールや導入事例などのリーフをファイリングしている。もう既に何年も経っているものもある。
既に失われたものも多い。
暗い気持ちで深夜を過ぎ朝になるまでファイリングをする。
多くなってしまうとおそらくその紙片も捨てられてしまうのだなと気づきながらも…だ。
言うなれば、
高次結晶化した魂の山を崩す賽の河原だ。
作らないひとはそれで良いのだろう。
さんざん創ってきた僕は自らの首を絞めるようその積み上げた山を崩す。
ツールも増えるし取っておきたいから取っておいたし、そのためのスペースを得られるくらいのカネを確保しておいたが、伴侶ができそのスペースはなくなり自分のアイデンティティを崩すことになる。
最悪だ。
では、価値あるものとはなんだろう?
Amazonやらメルカリ、ヤフオク辺りを覗けばだいたい何でも手に入る。
金額が書いてあるものは価値が付いているもので、表記されていないモノはそこにしかないないもので価値の有るものなのかもしれない。
今後、色々なものを買ったり創るにして、何が重要かを考えるいみでもココに記しておこう。
- アイデンティティに関わるもの
- 心血を注いだもの(コミットしたもの)
- たまに手にするもの
- 毎年使うもの
- 今使ってるもの
あたりだろうか。
アイデンティティに関わるもの
IDカードでも良いし、戸籍謄本でもいいし、小さな頃大好きだった絵本でもいい。
エロ本でもいいし、カメラでもいいし、レンズでもいい。
自転車のスプロケットでもいいし、化粧品でもいい。
心血を注いだもの(コミットしたもの)
ノッてたときに作り上げたなにか。買った何か。それだ。
身を粉にして作ったなにか。
自分の博物館を創ると考えた際に主張したい何かでもよい。
自分にとって関わりが深いもの。
アイドルの写真をとっておくではなく、自分が溺愛したアイドルの写真をとっておく。
自分が大好きだったマグカップをとっておく。
自分が大好きだったロボットアニメの超合金をとっておく。(捨てられたが)
たまに手にするもの
なんとなく大事。その程度で良い。いま自分の中でつかうものは価値の有るものだ。
シゴトでも趣味でもよいソレをつかうもの。
無いならカネを出して買うもの。
再度買うのはコストがかかるし結局買うもの。
それはテンポラリーな価値がある。
中古屋に物を売りに行くと判るが、テンポラリーなものはアンティークと比べて今様な価値が付いており、日に日にその価値は薄れていくものも有る。
テンポラリーなものは今必要なのでノスタルジーやアイデンティティと関わりなく必要だから価値がある。
毎年使うものたまに使うもの
スキーの靴。ダウンジャケット。シュノーケルセット。水着。ビーサン。長靴。レインコート。傘。マフラー。などなど。
今使ってるもの
パソコン。手帳。ボールペン。iPhone。iPad(売った)。Kindle。
思い出シンドロームという呼称のチープさ
捨ててる最中に手が止まるのは「思い出シンドロームだ」なんて横文字使って言ってたけど、思いれの有るものをみて過去回想するのは症候群などではない。
人間として当たり前の行動だ。
そして、その物は二度と会えなくなるわけで、思い出に浸って何が悪い。
思い出に浸って何が悪い。シンドロームなんて言ってるやつは頭がどうかしてる。と言って捨てた。
作るのに時間を掛けた分、別れにも時間はいる。
葬式を開くのが残された者たちが別れを認識するためだというのは非常によく分かる。
ゴミとして捨てられる前にしたたか、時間を掛けて別れを惜しむことは悪いことではに。非常に人間的なことだろう?
あと1月と少しで引越しの日を迎えるが、そこまでになんとかしなければならない。
本棚ふたつをカラにして(要は持ってるもの全部捨てるということだ)
伴侶にとっては何の思いいれもないゴミの棚。
僕にとってのアイデンティティの固まり。
どう決着を付けるのか…
それはゴミを捨てるだけである。
身軽になる。
坂本龍一がレコードを捨てたのににているのだろうか?
否。
だが、まぁ、僕は他に答えも見つけている。
とにかく、
文書は、
手書きのものも含めて
写真を撮っておこうとおもう。
無駄なあがき?
そうかもしれない。
いまならクラウドに上げることで文書もデータとしてのこるわけで、クラウドは完璧ではないのだけれど、それでも足掻きとして上等じゃないかと思っている。
で、まぁ、ドンドン捨てるわけだ。
クラウドのデータを失うときも来るのかも知れない。
ソレはソレだ。
時間を掛けて過ごしてきたモノたちとのお別れ。
モノを買うことで豊かさを謳歌してきた昭和生まれの漢の彼岸ココに極まれり。
価値ってなんだろうな。
今必要なもの?毎年使うもの?値段が付いているもの?アイデンティティ?
自分の関わり、関心、コミットが深いものはとっておくと良い。
解らない部分は写真に撮って先送りで構わない。
そこまで簡単に答えが出るものではないのだろう。
涙そうそう。(´;ω;`)